「殴りあわない人々」について説く前に、健全な方について詳しく書いておきます。「殴り合う人々」とはちょっと物騒ですが、要は、「睦び合う」「殴り合う」「殺し合う」の三つのコミュニケーションをすべて知っていて、状況に応じて使い分けられる者のことです。いつでも「殴り合う」ことができる、ということであって、いつも殴り合っているわけではありません。
まず、相手の存在を肯定できるか、幾ばくかの信用をおける相手か、という判断があります。肯定できる、信頼できる相手であれば、次に「睦び合うコミュニケーション」か「殴り合うコミュニケーション」かを選択します。相手の意見に賛成できるなら前者、反対なら後者となります。
「殴り合う」のは相手を倒すためではなく、相手と認識を同じくするために行われます。こちらは相手の認識を自分と同じものに変えようとし、相手もこちらに対してそうしようとするのですが、それは互いのためを思って試みられます。試みが「成功」して相手が意見を変える場合もあれば、「失敗」して自分が意見を改めることもあり、少しずつ歩み寄ることで決着するかも知れません。物別れに終ったとしても、それで信頼関係が失われるわけではなく、むしろ互いへの理解が深まります。少なくとも、真剣にやり取りができる相手であることが確認できますから、相互の信用は増すのです。
話題が変われば、改めて「睦び合う」か「殴り合う」かを判断することになります。前回どうであったかに関係なく、彼我の意見の同異のみによって決まります。
さて、相手がまったく信用できない、存在すら許し難いとしても、必ずしも「殺し合うコミュニケーション」に至るとは限りません。顔を合わせない、会っても無視するなど、コミュニケーションそのものを避けることが可能だからです。立場や成り行き上、正面から敵対せざるを得ない場合のみ、「殺し合う」こととなります。そこまで追い詰められるような状況は、おそらくは稀なことでしょう。
「睦び合う」か「殴り合う」相手=仲間と、「殺し合う」相手=敵とは、明確に分かれます。初対面の相手とは「睦び合う」(状況によっては「殴り合う」)のが作法です。どのようなコミュニケーションを図るべきかは自然と定まりますから、そこに過度なストレスを覚えることはない、というのが「殴り合う人々」です。