しばし悩みましたが、トラックバックをいただいた「いじめ」について。
この世から「いじめを無くす」のは多分、不可能です。「いじめ」というカテゴリー自体がインチキで、誰かが何かを「いじめ」と呼ぶ限りは存続しますから。
しかし個々の例について「いじめられなくする」のは、それほど難しくありません。
まず「誰がいじめを止めるのか」を考えましょう。加害者は「卑怯」だの「やめよう」だの言われても止めません。することにメリット(例えば、する側にいる間はされる側になりにくい)があるからやっているのだし、言われて止めるほど頭が良ければ最初からやりません。周りの人間だけでは限界がありますから、結局は被害者が「止めさせる」のが一番効果的です。いじめられっ子の行動こそが、「いじめられなくする」ための最も有効な手段なのです。
「いじめられる側にも原因がある」というのは、被害者の行動次第で止めさせることができる、それをしないのも「いじめ」存続の原因のひとつになっている、ということです。「にも」であって、「だけに」ではない点を、見逃すことなかれ。
「あなたが強くなりなさい」というのは素晴らしいアドバイスです。強い人間は大抵ターゲットになりませんから、確実に止めさせることができます。「強くなる」か「いじめられ続ける」かの二択は、自分で選ぶことができます。空手でもやると宜しい。それでも相手が止めなかったら?一発食らわせてやれ。倍返しにされたら?十倍返しにしてやれ。どうしてもイヤなら、「強くなるくらいなら、いじめられた方がマシだ」と言え。あなたの決断をとやかくは言うまい。
かく言う私は、(昨今の定義のような意味で)「いじめた」ことも「いじめられた」こともありません。「いじめられて、それを止めさせた」者ほど有効なアドバイスはできませんが、それでも「いじめられて、それを止めさせることができなかった」者や、いじめる側にしかいなかった者よりはマシでしょう。一切関わらずに済んだ原因を探ることならできますからね。
一番避けるべきは、「いじめられっ子」を「善良なる被害者」に祀り上げてしまうこと。あなたには何ら原因は無い、あなたは弱いままでいい、誰かが何とかしてあげるべきだ。これらの言葉に、「いじめ」を無くす力があるとは私には到底思えません。発言者がどれだけ「善良な同情者」であったとしても。
良薬口に苦し。甘い言葉をこそ、疑うべし。