「殴り合うゲームプレイ」では「睦び合う」のも「殴り合う」のも楽しまれます。対して「殴り合わないゲームプレイ」では、「睦び合う」ことは楽しまれますが、「殴り合う」方は選択できません。
2007年3月アーカイブ
何だか前回と同じような題名ですが、久々に近況をば。
「殴り合うコミュニケーション」の有無は、卓上RPGのプレイにも影響を及ぼします。仲間と「殴り合う」ことを抵抗無く楽しめる者と、何らかの理由で「殴り合う」ことができない者とでは、「好ましい」と思う遊び方が異なってくるのです。
「殴り合う人々」は日々気軽に「殴り合う」のに、「殴り合わない人々」はそうではありません。知識の差、後者が議論やケンカ(口喧嘩)などの「殴り合うコミュニケーション」をまったく知らないため、とは考えられません。現実に社会はそれらで満ちており、様々なメディアがそれを知らしめているのですから、仮にあったとしても至極稀でしょう。「殴り合う」ことを知ってはいるけれど、自分の行動としてそれを選択しないわけです。
「殴り合わない人々」とは、「殴り合うコミュニケーション」を行わない者のことです。彼らには、「睦び合う」か「殺し合う」かという両極端な二つのコミュニケーションしかありません。「殴り合えない人々」とも言えます。
「殴りあわない人々」について説く前に、健全な方について詳しく書いておきます。「殴り合う人々」とはちょっと物騒ですが、要は、「睦び合う」「殴り合う」「殺し合う」の三つのコミュニケーションをすべて知っていて、状況に応じて使い分けられる者のことです。いつでも「殴り合う」ことができる、ということであって、いつも殴り合っているわけではありません。
卓上RPGに限らず、「コミュニケーション」(言語による意思伝達)は重要な行為です。この「コミュニケーション」を、ここではその仲の良さ/悪さ、あるいは優しさ/厳しさで三段階に分け、次のように称します。1が最も親密、3が最も殺伐としたものです。
- 睦び合うコミュニケーション
- 殴り合うコミュニケーション
- 殺し合うコミュニケーション
しばし悩みましたが、トラックバックをいただいた「いじめ」について。
この世から「いじめを無くす」のは多分、不可能です。「いじめ」というカテゴリー自体がインチキで、誰かが何かを「いじめ」と呼ぶ限りは存続しますから。
しかし個々の例について「いじめられなくする」のは、それほど難しくありません。
回りくどいタイトルの今回は、オンラインではなく、RPG雑誌における記事を扱います。
- 友野詳「バカバカRPGを語る」第5回「パンティ爆発」
(Role&Roll誌Vol.26、p.54~55、新紀元社2006年10月発行)
他人様の「脳内」に突っ込みを入れるなど無粋の極みではありまするが、nagafutimasatoshiさんの「脳内」に見られる「FEARゲーマー」について、「カテゴリーを生む違和感」の例として。